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民営化

1978年、運賃法定制の緩和で国会審議を経ずに運賃改定が可能になると、大蔵省の圧力で運賃を毎年値上げせざるを得なくなり利用客減に拍車がかかりました。
1980年11月には、5年間で経営基盤を確立するなどとした日本国有鉄道再建法が成立しました。
しかし1981年から1982年にかけて、政府の第2次臨時行政調査会で進む国鉄問題審議に歩調を合わせ現場の悪慣行が次々とマスコミにリークされ、国鉄全体が世論から集中砲火を浴びました。
臨調は1982年7月の基本答申で、5年以内に本州4ブロック程度と北海道、四国、九州に国鉄を分割して民間会社に移行すべきとの方針を示しました。
政府は「国鉄緊急事態宣言」を出して新規採用の原則停止、職員数削減などを推進。
1983年には国鉄再建監理委員会が発足して民営化に向けた作業が始まり、白糠線を皮切りに特定地方交通線の廃止が進められました。
国鉄側は1985年1月10日、「非分割民営化」を盛り込んだ独自の再建案を監理委員会に提出しましたが支持を得られず、仁杉巌総裁は解任されました。
後任の杉浦喬也総裁は、常務理事ら幹部を大幅に入れ替えて6分割民営化を基本とする答申を提出し、各地に「地区経営改革実施準備室」を設置して民営化に向けた作業を開始しました。
1986年には、国労とともに分割民営化に反対していた動労が労使協調路線に転換。
同年の衆参同時選挙で自民党が圧勝したことが追い風となり、1986年11月に国鉄分割民営化関連法案が成立し、1987年4月1日にJRグループが発足(→国鉄分割民営化)しました。
分割民営化の最大の理由とされていた国鉄の経営状況は、単年度の営業収支では1984年度に黒字に回復。
国鉄最終年度の1986年度には3663億円の営業利益を計上し、実質的には民営化を待たずに再建を果たしていました。
当時の経営上の問題点は、長期債務の支払い利息で営業外費用が営業利益を上回って増大していた点でしたが、これについて国は抜本的な対策を講じないまま、長期債務の大部分を国鉄清算事業団に切り離す形で問題解決を先送りにした結果、のちの債務償還計画破綻につながりました。

 

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